流鏑馬
武田流弓馬道

武田流の歴史

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武田流の歴史

第五十九代字多天皇は時の右大臣 源能有(ミナモトヨシアリ)公に命じて弓馬の礼を制定され、以来「弓馬の礼法」は代々源家が相伝するところとなりました。源義光(新羅三郎義光)は甲斐塩平丘(市川大門)に居をかまえ甲斐源氏の祖となり、その後、義清、清光と続き清光の長男太郎信義(大治三年:1128~文治ニ年:1186)は甲斐武田庄(韮崎)に住し甲斐武田氏の祖となりました。これより鎌倉時代を経て室町時代に武田氏は甲州・芸州・若州の三ケ国の守護に分れ、「弓馬の礼法」は芸州の武田氏が司ることになりました。

一方、源頼朝は鎌倉幕府を開くに当り、源氏の氏神鶴ケ岡八幡宮に征夷大将軍として流鏑馬神事を奉納すべく、幕下の名門・故実家を糾合し流鏑馬故実礼法の確立を行いました。この時の記録として『流鏑馬射法』があり、これが流鏑馬の正式な故実伝書としては最古のものとなります。(武田流では本伝書を始めとする数多くの古文書に基づく弓馬礼法を継承しています。)

文治三年八月十五日(1187年)放生会の後に奉納されたのが、鶴岡八幡宮流鏑馬神事の始まりです。なおこの時の射手五名の二番手に前記武田信義の五男、石和五郎信光(後の武田信光)が選ばれています。以来この神事は毎年同日または翌十六日に行われていますが、時には他日由比ヶ浜に、稲村崎浜に、遠く三浦三崎で流鏑馬、笠懸が行われ、特に放生会流鏑馬は源家三代を経て文永三年(1266年)まで続き北条時頼・時宗もよく練武に励んだことは「吾妻鏡」によって知ることができます。

その後、武田氏の道統は一時若狭(福井県)の武田氏に移った時代もありましたが、徳川時代初期慶長年間に安芸(広島県)の武田信直より細川藤孝公に預けられ幕末まで肥後細川藩で保護され、明治十九年旧藩家老竹原惟路師の高弟井上平太師に移され、その後井上師の直弟であった金子有鄰に受継がれました。

昭和二年三月、ラジオを通して「北条流之陣太鼓」を講演したのを初め、昭和六年五月、鎌倉宮護良親王墓参道に馬場開きを行ない同年八月例大祭に同所において流鏑馬神事を奉納しました(昭和八年まで)。又、同年には「日本馬術普及会」を興し、その稽古馬場を由比ケ浜滑川尻に開いたことは当時の新聞が賑々しく報じています。

昭和八年十一月三日より明治神官に流鏑馬神事を奉納する機会を得ましたが、先師井上平太師が熊本にて没するに及び、伝書「流鏑馬之射法」を初め数百巻に及ぶ古文書と共に武田氏三十四代司家を継承しました。

扨て、明治神宮流鏑馬神事は太平洋戦争がいよいよ苛烈を極めた昭和十九年迄で華々しく施行しましたが、神宮戦災の為一時中止を余儀なくされました。

戦後、明治神宮社殿が再興成った昭和二十八年十一月三日の例大祭より目出度く復活し、また、鎌倉鶴岡八幡宮、寒川神社、三嶋大社、冨士御室浅間神社の流鏑馬神事、三浦笠懸などが当流の恒例行事として今日に至っています。

この間、熊本、高知、福島、山梨県等全国各地の神社に流鏑馬神事の奉納、流鏑馬に関する講演等日本古式馬術の普及に努めましたが、特に戦後時代劇の復活により真の日本馬術が理解され、黒澤 明監督作品「七人の侍」を初め「影武者」に至るまで、さらにNHK大河ドラマやTV各局等多数の作品の弓馬術指導と馬上武芸演技の協カを行っています。

武田流の道統は昭和五十五年三月、金子有鄰九十四才高齢のため、総領金子四郎家教が弓馬軍礼故実第三十五代司家を維承し、益々興隆のうちに今日に至っています。最近では、フランス、ドイツ、モンゴル、バハレーン、オマーンを始めとする海外への流鏑馬公演も多く、レーガン並びにブッシュ米国大統領来日時には政府よりの依頼により明治神宮にて流鏑馬神事を奉納し、日本文化の代表として御観覧戴きました。

現在、多数の門人がよく練武に励むことにより、流鏑馬に不向きな競争馬を功みに馭し、流鏑馬馬場を疾走する武田流の古式流嫡馬・笠懸神事の妙技が、本年も明治神宮・鎌倉鶴岡八幡宮を始め、各地で奉納被露されています。