流鏑馬
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流鏑馬

参考文献:『武田流正統「流鏑馬」の歴史 野沢公次郎著』

一、流鏑馬について

一般に「流鏑馬」とは騎射の一種で、馬に乗りながら鏑矢を射流して板的を射当てる競技であるかのように解説されてはいますが、流鏑馬本来の姿は、今から約千四百年前に神事として起こった「矢馳馬 ヤバセメ」の訛化であり、広義には騎射の一種ではあるものの、それは決して競技に類するものではなかったと伝えられています。

また、その起源についても『日本書紀』天武天皇九年(680年)の条に、長柄社に於ける「馬的射」の事が見られるところから、この「馬的射」が流鏑馬の原型をなすものとされ、流鏑馬の語句についても“馬に乗って鏑矢を射流す”ので、流鏑馬の字が当てられたと解説する書も少なくありません。

これまでの文献では、平安時代中期に成立した猿楽芸に関する最古の書とされる『新猿楽記』(藤原明衝著 1057年)に見られる流鏑馬の記事が初見であるとか、或いは平安後期の右大臣藤原宗忠が著した日記『中右記』(『宗忠卿記』ともいう)の永長元年(1096年)四月の条に、白河上皇が鳥羽殿の馬場で流鏑馬をご覧になった事が書かれており、これらが流鏑馬に関する最も古い記録であるとされています。しかし、これらの文献では流鏑馬そのものの起源と本質的には全く触れておらず、ただ平安時代に於ける流鏑馬は、宮廷行事「射術の公事くじ」に類するものであったとし、鎌倉時代から室町時代中期にかけては、途中南北朝時代の争乱期に中絶されていたものの、大方が武士の兵法修練の一環として行われていたというように説明されています。

しかしながら、今日に於いて解釈されている流鏑馬は、騎射の一種である「笠懸 カサガケ」「犬追物 イヌオウモノ」と混同して語られており、正確な流鏑馬の解説とは言い難いと言わざるを得ません。

そこで、武田流弓馬礼法の正統 金子司家(第三十五代、鎌倉市扇ガ谷)に伝承されている鎌倉時代からの厖大な資料・文献をもとに、流鏑馬の起源と歴史、礼法、仕組などについて解説いたします。

二、流鏑馬の起源

我が国の弓馬の礼法には、古来から『武田十二的之射法』と称される歩射及び騎射の作法がありました。この十二的の射法というのは、小的・三三九(サザンク)・串的・八的(ヤツマト)・鬨的(クジマト)・挟物(ハサミモノ)・百手(モモテ)・口宣的(クゼンマト)・四六三(シロクソウ)・奉射礼・草鹿・丸物のことであり、騎射とは『騎射之三物キシャノミツモノ』と称される流鏑馬・笠懸・犬追物の三種のことをいいます。

このうち笠懸と犬追物は弓馬の練習、競技などに用いられましたが、流鏑馬はそもそもの起こりが神事であったことから、あくまでも別格の存在とされていました。神事とは即ち「天下泰平・五穀豊穣」の祈願の事ですが、武田流司家に伝承されている古文書にも、神事としての流鏑馬は本来「矢馳馬」の訛化によるもので、その起源は古く三韓(古代の朝鮮)に深い関りを持つと記されています。

二~六世紀頃の朝鮮半島は、半島の東側を辰韓、西側を馬韓、南側を弁韓と称し、これを三韓と呼び、いずれも当初は我が国と極めて友好的な関係にありました。古書に依ると素盞鳴尊(スサノウノミコト)が晩年、曾尸茂梨(ソシモリ)に御座されたことが見えますが、曾尸とは朝鮮の古語で「牛」の意、茂梨とは「頭」という意味から、それは今の高原道の牛頭山のことであろうと推測され素盞鳴尊を「牛頭天皇」称して祀る祠もあります。

ところで、人皇第十二代 景行天皇(大足彦忍代別尊 オオタラシヒコオシシロワケノミコト)の御代、九州の熊襲が頻繁に反乱を起こしたため、天皇自らご親征になったり、御子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣されたという話は古代神話にも見られます。第十四代 仲哀天皇(足仲彦尊タラシナカツヒコノミコト)もご親征になりましたが、智将 竹内宿禰(タケノウチノスクネ)により、熊襲反乱の背後には三韓による後押しがあった事が判明したため、仲哀天皇の皇后 神功皇后(息長足媛オキナガタラシヒメ)の征韓となります。これにより三韓は鎮定され、我が国の大和朝廷は三韓の監視と南部朝鮮の経営のために弁韓、即ち任那国日本府を設置しました。この年代は「広開土王碑文」等から推定して四~五世紀頃といわれます。

その後三韓は大和朝廷に臣事、入貢の礼をとることになりますが、人皇第二十九代 欽明天皇(天国排開広庭尊アメノクニオシヒラキヒロニワノミコト)の御代、馬韓即ち百済国より釈迦の金銅仏が献上されてきたことで、この礼拝の可否を巡り、崇仏派の大臣家蘇我氏と排仏派の武人方頭領物部氏との間に大紛争が生じ蘇我馬子対物部守屋の争いは、統一国家として歩み出したばかりの大和朝廷を大きく揺さぶるほどに発展したのであります。

こうした我が国の内乱状態を知った新羅国(辰韓)は好期到来とばかりに兵を挙げ、まず高麗国に侵攻しこれを従え、その余勢をかり百済国に攻め入り、平城、漢城を占領するという擧にでたのです。このため百済、任那国は大和朝廷に援軍要請の書を送りましたが、肝心の国内が紛争中であったために僅かに九州の兵の一部や、寄せ集めの兵を派遣するのが精一杯の状態でした。その結果、壊滅的な敗北を喫したのです。そのような結果に心を痛めた天皇は、かつて三韓平定に苦心された神功皇后、応神天皇の二柱神を豊前国宇佐の地(現在の宇佐八幡宮所在地)に祀り、天下泰平、五穀豊穣を祈願すると共に、その神前に於いて馬上から三韓に准えて三個の的を射さしめたのが『流鏑馬神事』の起源となったと伝えられています。

このような欽明天皇の深い御軫念の甲斐もなく任那国は終に滅び、日本府も終焉を迎える(562年)に至った事は国史にも語られています。

奈良時代以前に見られる歴代天皇の中で流鏑馬神事に力を入れられたと思われるのは、冒頭に記した『日本書紀』による天武天皇で、長柄社に於ける「馬的射」であり、また、奈良時代に入ってからの流鏑馬は中々盛んに行われたようで、流鏑馬神事が全国に広がったものと思われます。

さらに、信濃国諏訪大社に関する古代からの伝説、祭事などを記述した『諏訪大明神絵詞』(群書類従本)などの随所に流鏑馬に就いての記述が見られます。延暦二十年(801年)の坂上田村麻呂を征夷大将軍とした東夷征伐軍に参加した信濃諏訪神領の官兵が、奥州の地で流鏑馬の妙技を披露し、邪賊退治のために全軍の士気を鼓舞したという話などを伝えています。

三、平安時代の流鏑馬、騎馬競技

さて、平安時代記録を見ると第五十六代 清和天皇は神事として発祥した流鏑馬に深い関心を示され、自ら射手となって流鏑馬の奉納に参加をされた事が伝えられています。

一方この時代、神事としての流鏑馬とは全く別の形式で「射礼ジャライ」と称される射術が、宮廷の年頭公事として存在していました。恐らく、この射術も流鏑馬と混同されて後世に語られるようになったものと思われます。流鏑馬と射礼の相違は「武田十二的射法」にも示される様に、流鏑馬が騎射であるのに対して射礼は歩射であり、武田十二的射法の中にある「奉射礼」が即ち射礼の事とされています。宮廷行事の射礼は正月十五日、兵部省で親王以下、五位以上及び左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府の射手を人選し順番を定め、同十七日に平安京内裏外郭門の一つである建礼門前で競射が行わました。天皇は豊楽院に臨御され、競射が終わると群臣に宴を賜り能射の者に禄を給したといわれています。

更にこの射礼とは別に、同じ建礼門前でこれも正月行事として行われた「白馬節会アオウマノセチエ」というものがありました。これは正月七日に白馬(本来は青馬)を見るとその年一年の邪気が祓われるという中国の故事を移したもので、奈良時代からの恒例行事だったようですが、とくに平安期は盛んだったと伝えられています。この節会は当日、左右馬寮から白馬を引き出して紫宸殿の庭を引き回し、天皇に御覧願った後、建礼門前に進んで群臣、民衆に披露、この後群臣は宴を頂戴し儀式を終えるというもので、建礼門を別名青馬陣というのは、この白馬節々会に因んだものといわれています。

平安貴族の間に宮廷内の行事として騎射(ウマユミ)、競馬(クラベウマ)、相撲、鷹狩なども盛んであったとされています。奈良時代にその発祥を見る騎射、競馬の他、騎馬競技として「打毬」というものが盛んになりました。これは、現在のポロに似た競技で騎馬を二手に分け、鞠(マリ)を竹製の叉手(サデ)というラクロスのスティックの様なもので掬い上げ、相手方の丸い穴のゴールに投げ込み合う競技で、ペルシャ~中国を経て神亀四年(727年)に奈良の春日野で若い貴族たちが遊び興じたという記録もあります。

さて、第五十九代 宇多天皇は寛平八年(896年)、時の右大臣 源 能有(ミナモトヨシアリ)に命じ『弓馬之礼法』を制定させました。能有はこれを貞純親王に継承せしめ、親王は六孫王経基に伝え、それより満仲、頼信、頼義を経て八幡太郎義家へと源氏が世々相伝しました。これが甲斐源氏の始祖であり、義家の弟である新羅三郎義光へと伝承されます。(『武田流司家秘伝書』)

『尊卑分脈』の義光系譜によると義光自身の傍注に「弓馬達者」とあり、この義光から『射礼相伝』は、甲斐源氏一統の義清_清光を経て武田氏祖太郎信義へと相伝されています。武田系図でも『射礼相伝』が明記されていますが、武田信義は同時に「盾無相伝」も受けており、信義から『射礼・盾無相伝』は五男の信光(石和五郎)へ、信光から『射礼相伝』は一宮七郎信隆へ、「盾無相伝」は一条六郎信長へと移りますが、系図上では南北朝期に『射礼相伝・盾無相伝』とも再び甲斐武田氏宗家へ継承される事になります。

四、鎌倉時代の流鏑馬

鎌倉時代における流鏑馬の記録は多く『吾妻鏡』によって知ることが出来ます。鎌倉の地に幕府を創めることになった源氏の頭領 源頼朝は、嘗て流鏑馬神事に就いて西行法師に教えを請い、天下泰平を祈念しての流鏑馬奉納を念願としていましたが、文治三年(1,187年)に至り、ようやくこれが実現するところとなりました。この年の八月十五日、頼朝は鶴岡若宮(後の八幡宮)で放生会を催す事になり、この際に流鏑馬を奉納したのが鎌倉期における流鏑馬神事の復活とされています。これより文永三年(1266年)の北条時宗による奉納まで、公式記録によると鶴岡だけでも四十七度の流鏑馬が幕府の手で催されています。この頃の『吾妻鏡』の中に、後世にまで語り継がれた流鏑馬に纏わる三つの逸話が記録されています。

一、熊谷次郎の事件

熊谷次郎は、平家追討の折「一の谷の合戦」で平敦盛を討ち取り勇名を馳せた熊谷直実のことです。事件は頼朝が文治三年八月の鶴岡若宮への流鏑馬奉納に先立ち、同月四日、射手、的立など所役の人選を行った際、直実に対し「的立て役」を命じた事から起こりました。

流鏑馬に関る所役には、総支配の奉行、射手、的目付、幣方、矢取、旗手、扇方、陣太鼓とあり、このうち奉行と射手は鎧直垂(中袖)装束に鬼面のついた綾桧笠(アヤヒガサ)を戴き騎馬で登場します。これに対し、的目付以下の所役は、直垂姿(大袖)に後三年形の烏帽子装束で徒歩となります。源家の勇者を以って自負する直実は当然徒歩で登場することに不満を示し、頼朝にこの役を断ってしまいました。

『吾妻鏡』は、直実の申し分として「・・・熊谷直実ヲ以テ上手ノ的ヲ立ツ可キノ由仰セラルルノ処、直実鬱憤ヲ含ミ申シテ曰ク、御家人ハ皆傍輩ナリ。然ルニ射手ハ皆騎馬ナリ、的立テ役人ハ歩行ナリ。既ニ勝劣ヲ分ツニ似タリ。カクノ如クノ事ニ於テハ直実厳命ニ従ヒ難シ・・・」と書かれています。

驚いた周囲の者は、的立役人も決して下職の務まる役ではなく名誉ある任務であると諌めましたが、直実は耳を貸そうともしませんでした。頼朝は烈火の如く怒り、即座に直実の所領地を没収してしまったのです。一所懸命とも言われるように、所領地は武士の命にも等しい時代、頼朝の怒りが如何に激しかったかが窺える事件です。

二、諏訪盛澄の事件

諏訪盛澄は、信濃の国一宮、諏訪大明神の神職でしたが平家に属していたために、鎌倉に囚われの身として幽閉されていました。先の熊谷の事件で躓きを見せたものの、頼朝は八月十五日の放生会と流鏑馬の奉納を予定通り実施しました。この時、盛澄が弓馬の妙技を披露した事で一切を許されたのですが、同日を記録する『吾妻鏡』の記述の中に甲斐源氏一統の面々のことが書かれていますので次に掲げて見ることにします。

「十五日癸未 鶴岡ノ放生会ナリ。二品(頼朝)御出。参河守範頼、武蔵守広信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守広綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等扈従ス。流鏑馬アリ。射手五騎、各々先ズ馬場ニ渡リ、次ニ各々射訖ンヌ。皆的ニ中ラズト云ウコトナシ。其後珍事アリ。諏訪大夫盛澄トイフ者、流鏑馬ノ芸ヲ窮ム。秀郷朝臣ノ秘決ヲ慣ヒ伝フルニ依リテナリ。 爰ニ平家ニ属シ多年在京シ、連々城南寺ノ流鏑馬以下ノ射芸ニ交リ訖ンヌ。仍ッテ関東ニ参向スル事、頗ル延引スルノ間、二品御気色アリテ日来囚人タルナリ。而して断罪セラレバ、流鏑馬ノ一流永ク陵廃ス可キの間、賢慮思召シテ旬月ニ渉ルノ処、今日俄カニコレヲ召出サレ、流鏑馬ヲ射ル可キノ由ヲ仰セラル。盛澄領状ヲ申ス。御厩第一ノ悪馬ヲ召シ賜ハル。盛澄騎ラシメント欲スルノ刻、御厩ノ舎人蜜々ニ盛澄ニ告ゲテ曰ク、 コノ御馬、的ノ前ニ於テ必ラズ右ノ方ニ馳セルナリト云々。則チ一ノ的ノ前ニ於テ右方ニ寄ル。盛澄生得ノ達者タレバ押直シテコレヲ射ルニ始終相違ナシ。次ニ小土器ヲ以テ五寸ノ串ニ挿ミ、三ツコレヲ立テラル。盛澄亦悉ク射畢ンヌ。次ニ件ノ三箇ノ串ヲ射ル可キノ由仰セ出サル。盛澄コレヲ承リ、既ニ生涯ノ運ヲ思ヒ切ルト雖モ、心中ニ諏訪大明神ヲ祈念シ奉リ、瑞籬ノ砌ニ拝還シテ霊神ニ仕フベシテヘレバ、只今擁護ヲ垂レタマヘテヘリ。 然ル後、鏃ヲ平ニ捻リ回シテコレヲ射ルニ、五寸ノ串、皆コレヲ射切ル。観ル者感ゼズト云フコトナシ。二品ノ御気色マタ快然トシテ、忽チニ厚免(罪を許される事)仰セラルト云々-」

以上『吾妻鏡』に見られる諏訪盛澄事件の顛末ですが、放生会などの重要儀式に甲斐源氏の加賀美遠光、安達義定らが頼朝側近の座にあったこと、また当日の奉納流鏑馬の二番手の射手に「伊沢五郎信光」(石和五郎と称した武田信光)が選ばれ、すべての的を射当てていることが記されおり、鎌倉時代初期に於ける流鏑馬と武田家の関係を知る上で興味のある記述であります。

ところで、断罪か赦免かの瀬戸際に立つ諏訪盛澄が、頼朝の面前で妙技を見事に披露したわけでありますが、盛澄は御厩役人から予め馬の癖を知らされていたとはいえ、式之的、小土器之的(競射)を射当てた後に三本の串的を射るよう命じられています。これは至難の技に近く、さすがの盛澄も「我が運命これまで・・・」と嘆息し、思わず諏訪大明神に加護を念じた様子がありありと描かれています。この条の記述で興味を引く事は、既に鎌倉時代に「射手」とか「一之的」「ニ之的」という称呼のあった事、さらに流鏑馬流派として武田家の他に他流派の存在があった事、小さな土器の的や小串の的などを射当てる射芸の名手が居た事などです。

この盛澄事件について『諏訪大明神絵詞』では、盛澄は諏訪下社の祝(ハフリ:神官)金刺盛澄であるとされています。絵詞によると盛澄は「弓馬の芸能、古今ニ比類ナシ。ソノ力量神ニ通ジケルヤ」と神技に及ぶ技術を誉めており、すべて百発百中、流鏑馬の三三九、八的、挟的などは一度も射損じた事がなく、大社御射山神事は常に兄の手塚太郎光盛と腕を競ったとあることから、兄弟ともに弓馬術にかけては相当の腕前あったと思われます。『吾妻鏡』では盛澄が平家に組した為に頼朝の怒りに触れたとありますが、『絵詞』では盛澄は木曽義仲を婿としていたために頼朝に忌まれたとし、身柄は梶原景時に預けられ処刑される事になっていました。景時はこの弓馬の達人の助命を考えていた矢先に鶴岡での流鏑馬奉納となり、頼朝の前に射術の妙技を披露することになったと記しています。

三、河村義秀の事件

建久元年(1,190年)八月、源頼朝は十五日に鶴岡で恒例の放生会を催し、翌十六日に流鏑馬奉納と競馬を同境内で行いました。例年は、十五日に放生会と流鏑馬奉納を同時に行いますが、この年は「事繁キニ仍テ今年初メテ両日ニ分タルルナリ」(『吾妻鑑』)とあるだけで、二日間に跨った理由は明らかではありません。その十六日、流鏑馬神事の直前になり射手の一人に故障を生じ欠員が出来てしまいました。流鏑馬の射手は当時でも“特殊技能者”であったため簡単に補充出来る物ではなく、あわや神事中止という非常事態になりました。その時、側近の一人大庭景能(景義)が頼朝の前に進み出で、河村三郎義秀こそは本日の大事な神事に立派に射手を務める事が出来ると申し出たのです。

これを聞き頼朝は驚きました。何故なら河村三郎義秀は十年前、既に頼朝の命に依り斬罪に処されていた筈であったからです。義秀は相模の国の住人大庭三郎景親の家人として同国河村郷を領していた武将でしたが、治承四年(1180年)八月、頼朝が源氏再興の挙兵の緒戦である石橋山合戦に敗れた時、敵方大庭景親に組し、頼朝を安房に敗走させた人物でした。その年の十月、勢力を盛り返した源氏は再び相模の国を奪取、大庭・河村ともに頼朝軍に囚われるところとなり、景親は上総権介広常に預けられ直ちに処刑、義秀も河村郷を没収され大庭平太景能に預けられ、頼朝は即刻斬罪に処するよう景能に厳命していたのです。

このような経緯から、突然景能から義秀が生きていると聞かされた頼朝が驚くのは当然のことでした。景能は、頼朝の命に背いてまで義秀を匿ったのは「義秀は古今の弓馬達者であり、何時の日か必ず頼朝公の馬前で役に立つ働きをする器量人あると信じたからである」と訴えました。頼朝はこの景能の願いを聞き入れ「件ノ男ハ斬罪ニ行ハル可キ由下知シ訖ンヌ。今ニ現在スルハ奇異ノ事ナリ。然レドモ神事ニ優ジ早ク召シ進ズベシ。但シサセル堪能ニアラズンバ(もし仕損じたら)重ネテ罪科に処スベシ」(『吾妻鑑』)と言い、義秀の出場を認めました。義秀は頼朝幕下の好奇の視線を感じながらも作法通りに騎上の人となり、小土器、作物、三尺の手挟、八的など、こと如く射当てたので頼朝は大いに喜び、神事終了後、義秀を面前に召して即座に赦免の恩命を与えるとともに、旧河村郷の地頭に命じたということです。

頼朝以後、頼家-実朝と続く源家三代の鶴岡八幡宮に於ける放生会、流鏑馬神事は、大体において「例の如し」と見られるので月日の延期或いは流鏑馬神事の最中に暴風雨となり中止した〔建永元年(1206年)八月〕ことはありましたが、継続して行われていたようです。

奈良・春日大社に制作年代を鎌倉時代とする木彫りの騎馬武者人形が保存されていますが、これは明らかに当時の流鏑馬の射手を表現する人形であり珍しいものといえます。残念ながら大社側には流鏑馬人形の伝承に就いての記録は見当たりません。

五、流鏑馬と武田家

源氏三代の後、北条氏による執権政治に移った鎌倉時代の流鏑馬神事は、前述の通り文永三年(1266年)の北条時宗による神事奉納まで四十七回行なわれていることは記録に明らかでありますが、純粋な神事としての流鏑馬と併行し競技的な性格を持つ競馬・競射も盛んに行われるようになりました。このような変化は頼朝没後の頼家、実朝の頃既に見え始めており、実朝などは鎌倉由比ガ浜で再三にわたり自身も出場、競射の腕を競っています。

これは武士の間に益々弓馬の修練が必要となり、競射に武士の名誉が懸けられるようになったからです。騎射の一種である笠懸、犬追物も各地で盛大に催され、北条氏の歴代執権も進んでこの競技に参加、時頼、時宗は名手としての名を高めています。

ではここで流鏑馬に類似する笠懸、犬追物に就いて解説いたします。

●笠懸(カサガケ)

笠を的にして馬上から弓で射る騎射術のことで、装束は狩衣装束に鹿、熊、虎などの毛皮で作った腰から脚じかけて覆う行縢をつけます。的となる笠は綾藺笠で、約109メートルの距離から遠矢で射ます。また直径12センチの小的を射るのを小笠懸と呼んでいます。平安末期にこの競技は始まり、鎌倉時代は武士の騎射訓練として特に盛んだったようです。

●犬追物(イヌオウモノ)

馬を走らせながら犬を追い射ちする競技で「犬追物射」の略といわれています。この競技もやはり平安末期に発生、笠懸同様、鎌倉時代は特に盛んでした。競技は竹垣などで馬場を囲い、この中に白犬百五十頭を十頭ずつ十五回に分けて放ち一手十二騎の騎手が追います。射手の乗り方と矢の当たり方により成績を決めますが、犬を傷付けないように、使用する矢は鏃ではなく桐や朴(ホウ)で作った鏑を付けた蟇目矢を用います。射手の装束は素襖(直垂の一種)に折烏帽子、小袴を着け、行縢を履き射小手を着けます。

さて、流鏑馬は神事として、笠懸、犬追物は競技として鎌倉時代を推移しますが、南北朝時代は国内争乱のために一時中断し、室町時代を迎え再び活発に行われるようになりました。

室町幕府の『足利武鑑』によると、武者所七頭として奏者司家に伊勢氏、武者司家に今川・渋川・東吉良・西吉良の四氏、そして弓馬軍礼の司家に前代からこの礼法を継承する武田家が勤めている事が記されています。室町期に於ける武田氏は、甲斐、安芸、若狭三国の守護職として三家に分流しており、弓馬の礼法司家を勤めたのは、このうち安芸武田氏でした。(小笠原氏においては信濃系ではなく備前小笠原氏であったことが知られています。この経緯は国学院大学 仁木謙一教授の研究に詳しく記述されています。)

それを裏付けるように甲斐武田氏関係では、系譜上に見られる「射礼」の相伝は十三代信重、十四代信守、十九代晴信(信玄)に見られるだけで、甲斐国内に於ける流鏑馬、笠懸、犬追物に関する文献資料は皆無です。

流鏑馬神事を含む弓馬軍礼の正統である武田氏の派生が、鎌倉時代初期にその源流を見ることが出来ることは既に記した通りですが、武田流の場合現在の継承者である第三十五代金子司家に伝承されるまでにはかなりの盛衰がありました。

金子家所蔵の秘伝書は巻子、冊子、古文書ともに厖大なものでありますが、継承の系譜を辿ってみると鎌倉_室町初期までは甲斐源氏の宗家武田氏が源頼朝・頼家・実朝の源家三代と北条義時・泰時らの弓馬の師範であった信光から信武に至る六代は「射礼相伝」があったものと思われますが、信武の子の代から氏信(直信ともいう)を始祖とする安芸武田氏に受け継がれました。さらに武田信繁以降は、安芸・若狭守護の武田治部少輔信栄(若狭武田氏祖)が相伝、ついで信賢(信栄の弟で養子となる。安芸・若狭・丹後守護)_国信(信賢の弟で養子となる。若狭・丹後守護・安芸半国所領)_信親(国信の子、若狭・丹後守護兼補)_元信(信親の子、同)_元光(元信の子、同)_信豊(元光の子、同)_信統(将軍足利義輝の妹を妻とし義統と改める)_元明(天正十年謀殺)と、若狭武田氏が代々相伝しています。

一方、安芸武田氏は信繁のあと元網_元繁_光和と続き、その養子光広の代で相続争いに毛利元就の介入があり滅亡するのですが、この光広の夫人が細川藤孝(幽斎)の妹であったため、安芸武田氏は滅亡後、一族が細川氏の庇護を受けることとなり、若狭武田氏から弓馬礼法を継承した安芸の武田吸松斎信直(光広の弟か)が、これを細川氏に伝授したものと思われます。武田流継承者の二十二代目に幽斎の名が見られ、信直の弓馬の芸の直弟子である竹原惟成に伝授しています。

細川氏は武田氏と同じ清和源氏の出自であり、室町幕府以来の管領家としての名門であるため弓馬礼法の武田流を保護したと考えられます。江戸初期の寛永九年(1672年)幽斎の孫である忠利の時、豊前小倉三十五万石から肥後熊本藩五十四万石の大々名となります。「武田流弓馬之礼法」は、細川家門外不出の秘伝として竹原氏が十三代に亙り継承してきました。

明治二十八年、流儀相伝三十二代目の竹原八右衛門惟路が病死しました。ところが惟路師には嗣子がなく、旧藩主細川護久侯爵は武田流道統の絶えるのを憂い、明治十九年六月旧藩士の上輩を凌駕し、井上平太居元に弓馬の秘伝書一切を印可相伝、第三十三代武田流司家を襲名させました。

井上平太師は幕末、明治維新の動乱期に小倉・京都・会津戦争を歴戦した兵法家で、惟路師が没する十年前に弓馬礼法の奥義を窮めていました。この井上平太師も昭和八年二月、八十六歳の高齢をもって熊本の地に没しましたが、その遺命により同九年十月、旧藩主細川護立侯爵、時の熊本県知事ら立会いのもとに、井上平太居元師の高弟であった金子有鄰師が武田流第三十四代弓馬軍礼故実司家を受け継ぎました。更に、昭和五十五年三月金子有鄰師高齢のため総領金子四郎家教現司家が武田流第三十五代を継承し今日に至っています。

六、江戸時代の騎射

室町時代末期のいわゆる戦国乱世における流鏑馬神事の記録は見当たりません。僅かに『諏訪神使御頭之日記』『駿河三島大明神記』などに神鷹神馬の奉納が流鏑馬に代わり見られる程度です。

慶長八年(1603年)、江戸に幕府を創設した徳川家康は諸国大名統制のための基本法ともいうべき『武家諸法度』の制定準備に着手、元和元年(1615年)五月豊臣氏滅亡の直後、伏見城に諸大名を集め公布しました。これに先駆け家康は永井左近大夫直勝に命じ、京都に隠棲中の細川幽斎を訪ねさせ、武家の諸礼法の伝授を求めました。幽斎は初め三渕氏、そして長岡氏を名乗り、一説には足利将軍義晴の庶出の四男ともいわれる人物で、弘治・永禄の頃将軍義輝の命で細川元常の養子となり細川家を再興しました。幽斎は旧室町幕府時代の年中行事、武将の威儀三巻などを与えました。家康はこれを基に武家諸法度を制定したといいます。しかしながら、弓馬に関する礼法はこの時脱漏していたため、三代将軍家光は「犬追物」を催そうとしましたが故実が全く分からず、かつて江州観音寺城主の佐々木氏が行った「犬追物」の風景が、土佐光茂の手により絵巻となっていたのを参考にせざるを得なかったのです。これは徳川家が新興大名のため故実・伝書の類が皆無であった事を如実に現しています。

また、八代将軍吉宗も「弓馬の礼」の復興に熱意を示しました。お納戸役浦上弥五左衛門に命じて手持ちの資料を調べさせた末、弥五左衛門の書き上げた『流鏑馬類聚』により近習諸氏に騎射の稽古をさせ、元文二年(1737 年)二月九日、孫(後の十代将軍家治)の痘瘡(天然痘)の平癒祈願のため、高田馬場の穴八幡で流鏑馬を催したことが『徳川実記』に見られます。しかし故実に則っての弓馬礼法は資料不足のため行えず、笠も綾藺笠(アヤイガサ:田楽踊りの笠)を使用しており、このことから吉宗は「これは古法に基づくものでないため、流鏑馬にあらず騎射・挟物というべし」と断っています。しかし何時の頃からか、この騎射・挟物を流鏑馬と称するようになり、古来からの正統流鏑馬に対して江戸時代からの流鏑馬を『江戸流鏑馬』と区別してよんでいます。

七、近代の流鏑馬

今日、東京明治神宮を始め各地でさまざまな形の流鏑馬神事が挙行奉納されていますが、その威容が一堂に会する事はありません。しかし過去に各流派がその技を競った事がありました。

昭和十六年四月七日、天覧(昭和天皇)による流鏑馬が東京代々木原頭に於いて開催されました。昭和十六年七月発行の『日本弓道誌』によれば、その時の射手は三流派で次の通り記載されています。(〇印は的中、順に一之的・ニノ的・三の的)

小笠原流 小笠原清信 三十一歳 ○○○
  斉藤 直芳 四十一歳 ○××
       
細川流 松井 憲之 五十四歳 ×××
(熊本) 竹原 正文 三十五歳 ○××
       
武田流 金子 有鄰 五十五歳 ○○○
  井上 ススム 三十五歳 ○○○

最近では、昭和五十八年十一月十日、皇太子同妃両殿下(現天皇皇后両陛下)、レーガン大統領夫妻に明治神宮内苑に於いて流鏑馬神事をご披露し、平成三年六月、エルメスの招聘でフランス パリ郊外のシャンティ城内馬場にて流鏑馬を公開、同年十一月四日、フランス支部を設立。さらに平成四年六月にはドイツ ボンにて流鏑馬を披露。それに続き、日本人移民百周年記念行事としてブラジル サンパウロにて流鏑馬を公開。平成十四年二月、ブッシュ米国大統領来日時に明治神宮に於いて流鏑馬神事を披露をしました。